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一人は皆と、皆は一人と、共に影響しあって、世界は動いていきます。
もう無関心ではいられない、世界の動きを検証します。
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■人民民主主義って何?【2002年10月28日】
政治家の資質 vs 選ぶ側の見抜く目 / 国名に集約するパラドックス / 民主主義の温度差
●政治家の資質 vs 選ぶ側の見抜く目
北朝鮮から一次帰国している拉致された方々の報道を見たり、子どもを日本との交渉カードに使おうとしている北朝鮮の発言を見ていると、この国は、交渉で少しでも有利に経済援助を引き出そうと踏んでいるようです。国単位でやっているので、そのアブノーマルさに眼くらまされてしまいがちですが、ものごとの見方が私たちとまるっきり逆転しているので、平気でやれるのだと思います。よく、戦略と戦術のちがいとして、戦術は目にみえるが、戦略は目にみえないといわれます。報道の表面で一喜一憂するのではなく、その奥の意図を見抜く冷静な目が必要ですね。
こういう国とつきあわざるをえない外交というものは、笑顔と深い教養と透徹した歴史観に裏付けられたインテリジェンスを武器にして行う、戦いだと思います。ぜひ、勝っていただきたい。そうしないと、拉致された方々やご家族は日本に戻れなくなってしまいます。北朝鮮は核開発も認めたことで、世界から非難を浴び、さらに日本には有利な外交展開ができるときですから、ぜひ世界の外交舞台に出ていくときなのだと思います。
そして、その偏向したものの見方を捨てて、私たち世界の仲間として生きると決めるのなら、経済システムの立て直しもお手伝いしましょう。統制経済やヤミ経済から自由経済への変換もお手伝いしましょう。どうやったら、国民が幸福に生きていけるか、アドバイスもできますよ、と言えるのではないでしょうか。
在独30年余のジャーナリスト、クライン孝子さんが、ご自身の発行されているメルマガ「クライン孝子日記」で書いておられますが、ドイツでも統一前には旧東ドイツに拉致された人がいたのだそうです!
(初めて知りました!)事件が起こると、西ドイツの各政党は普段の政争は棚上げにして拉致問題解決に力を合わせたのだとか。もちろん、当時の外相が乗りこんで行き、交渉して取り戻したのだそうです。
普段は政策上の違いから他政党を非難しあっている間柄でも、一旦自国民が拉致されたりしたら、西ドイツとして力を合わせて政治解決に尽力する、という当たり前のことが当たり前のこととして機能していたということです。
この辺が、政党としても政治家としても、その資質を問われる点ではないでしょうか。そして、そうした基本的な政治センスのある人を選挙で押し上げていく、という私たちの問題でもあるのだなあと思い当たります。
人々にバラ色の未来をもたらす共産主義社会、社会主義社会という空理空論に眼くらまされた日本の政党やメディアは、いま大顰蹙(ヒンシュク)を買い、その厳しい現実と向き合うはめになっています。ぜひ、その色眼がねを捨てて、現実を素直に見ていただきたいものですね。
●国名に集約するパラドックス
いつも、不思議に思うのですが、北朝鮮の正式な国名は「朝鮮民主主義人民共和国」、英語では、「Democratic
People's Republic of Korea」です。この「民主主義=Democratic」ですが、北朝鮮が使うとまるで悪い冗談のようなものです。金日成・正日親子による独裁恐怖政治体制のどこに民主主義があるのかと思います。共産主義・社会主義政体を持つ国は、すべてではありませんが、自国の国名に「人民」や「民主主義」、「民主」という言葉を入れています。
今まで資本家や宗主国などに虐げられてきた人々の幸福を実現する政治を行う、という理想を込めたのでしょうか。でも、残念ながら、現実はその対極にあります。彼ら為政者の目指す「民主主義」ですが、ほんとのところは、どんなものなんでしょうか。看板に偽りありです。
今回、一次帰国者を帰さない決定を政府は発表しましたが、産経新聞は10月25日付けで、阿倍晋三官房副長官の言葉として「(日本に住む)家族が帰さないと言っているのを、政府が無理やり帰せるか。日本は民主主義国家だ」と伝えています。
●民主主義の温度差
普段私たちが認識している民主主義と、アメリカの民主主義の理解がどうも違っているんだなあと感じるようになったきっかけは、人気法廷コメディドラマ、「アリーmyラブ」を見ていたときです。
アメリカの裁判制度と日本の裁判制度が違うことは頭では分かっていましたが、このドラマを見ているうちに、これは民主主義というものの理解に差があるのではないかと思い至るようになったわけです。
なぜ、裁判に一般の人が参加するのでしょうか。
なぜ、専門の裁判官と検察官と弁護士とで裁判を進める制度ではないのでしょうか。
なぜ、人々はあんなに気軽に裁判に持ちこむのでしょうか。
なぜ、法廷ドラマがあそこまでおもしろくなるのでしょうか。
なぜ、日本の法廷ドラマはあまりおもしろくないのでしょうか。
「アリーmyラブ」では、ときには、陪審員は弁護士の弁論に意のままに誘導される善意の人々のようにも揶揄され、描かれたりもする存在です。ごく普通の人々として描かれています。また、裁判の最終弁論では、その問題の争点が、一般の人々にわかる言葉で、陪審員に向かって印象的(=往々にして感情的)に訴えられます。裁判長は、陪審員にある特定の事柄についての判断を出すよう促します。その陪審員の出した結論を待って、最終的な判断を下しているように見えます。何か、裁判長は裁判全体をコーディネートしているようにも見えます。
こんなことを考えながらドラマを楽しんでいたのですが、そのうち、裁判の主役というのは、あくまでも一般の人々、その代表としての陪審員なのだということに気づかされるようになっていきました。「主権在民」ということがこういう形で裁判にも制度化されているというわけです。国民1人1人が国を背負って立つ主役である、ということをこういった形で明確にしているということなんだなと思います。裁判や裁判所というものも、日本で考えるものよりもっと人々に開かれた存在なのだと納得していくようになりました。
みなさんは、民主主義というと、何を連想されるでしょうか? 選挙にいくことですか?
普段、私たちは民主主義というと、反射的に選挙のことを思い浮かべる程度ではないでしょうか。その他には、多数決ぐらいですか? ...私たちは、案外「民主主義」をあまり知らないのかもしれませんね。これは、とても深い問題のようなので、つづきで考えたいと思います。 <Rei>
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