

【 イスラムのゆくえ 】
序説
第1部
イスラム国寸描
「ユーラシア異変」
「イスラムとの遭遇」
第2部
文明の概観、経緯、特徴
「イスラム文明拝見」
第3部
文明の盲点
第4部
文明の今後
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2004年の年間テーマ【 イスラムのゆくえ 】
複数の視点と切り口から、このイスラムの行方に迫ってみようと思います。
第2部では、イスラムの中心部であるアラビア半島に目を向け、・イスラム文明が起こってきた経緯や、特徴・イスラム文明が担った役割をみてみようと思います。
「そもそも、なぜ&どのように、イスラムが起こってきたのか」から入ってみます。
序説
「ユーラシア異変」
「イスラムとの遭遇」 第1部 イスラム国寸描
1〜3月
「イスラム文明拝見」 第2部 文明の概観、経緯、特徴 5〜6月
? 第3部 文明の盲点 8月〜
? 第4部 文明の今後 10月〜
の括りになるよう書く予定ですが、配信月など変わることも..。
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■ イスラム文明拝見 - 影響 【2003年5月16日】
砂糖入り紅茶 / イスラムからヨーロッパへ
先週は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の違いに少し触れました。
また追って、もうちょっと突っ込んでまとめてみます。
今週は、視点を変えて..
イスラム文明は、西洋文明の1つ前に栄えた文明だと書いたとおりです。
ですので、西洋文明の中には、イスラム由来のものが多数溶け込んでいます。
イスラム文明が先にあり、その養分を吸収して西洋が発展していったわけで
す。最初からケンカばかりしていたのではなく、影響しあっています。
■砂糖入り紅茶
私たちがイスラム圏を知ったのは、明治以後、ヨーロッパ文化を通してでした。
ですから、私たちが欧米から輸入したと思っている文化にも、イスラム起源のものがけっこうあります。
一例を出すと、「砂糖入り紅茶」。
砂糖は、アラビア語では ⇒ スッカル
ちなみに、イラン ⇒ シャカル
フランス ⇒ シュクル
ドイツ ⇒ ツッカー
イギリス ⇒ シュガー
サトウキビは東南アジア原産の植物で、7世紀初めにはインドを経てイラン、イラク地域へと売買されていました。
イスラム圏では、砂糖は当時、薬や甘味、ぜいたく品として、スルタンから臣下へと断食月に賜与されるものとして、大量に生産されて、かつ大量に消費されていたものだそうです。
現在でも、いろんな祭や宗教行事のときには、お菓子屋さんの店先には、馬や花嫁、花などをいろいろにかたどった大きな砂糖菓子が並ぶのだそうです。
筆者もインドネシアで、ハデな彩色の砂糖菓子がパサール(市場)や街の屋台で山積みされているのを多数みかけました。あんな甘い砂糖の塊、誰が食べるのか?
味オンチなんだろうか? 熱帯だから味も濃いのか?
などと思っていましたが、
イスラム圏の砂糖文化という7世紀頃からの長い歴史があったんですね。
ちなみに、
日本に伝わってきた型抜き菓子の「ラクガン」は、中国の「軟落甘」という菓子から転訛されたものだとされているようですが、砂糖を固めるスタイルと甘さからみると、案外、イスラムの砂糖菓子につながるものなのではないか?
と想像をたくましくしているのですが..。
こうして、インド商人から買い付けたサトウキビは、自分たちで栽培・精製したほうが高く売れますから、精製技術とプラントをイスラム圏で独占して、各地に砂糖工場が建ち、
大量生産と大量消費品目、高利を生む輸出品目として砂糖は位置付けられていたようですね。
つまり、砂糖は栽培、精製、消費、輸出までを含むイスラム圏のほぼ独占一大産業だったわけです。
インド商人やイスラム各地から集められた砂糖は、アデンの港からカイロに運ばれ、そこで、アレクサンドリアにあった商館でヴェネチアやジェノヴァのイタリア商人に売却され、西洋キリスト教圏に運ばれています。
ですから、西洋キリスト教圏では、当時、砂糖は王侯貴族のもので高価です。
この高価な砂糖が、ヨーロッパ庶民の口に入るまでに拡がった裏には、イスラム圏の砂糖産業の没落以上の激変があります。
それは、
西洋キリスト教圏でも、自分たちで砂糖栽培・精製をできないものかと、当然抜け道を考えるようになり、
この高価なサトウキビ栽培と精製技術を、イベリア半島のイスラム教徒から聞き出して、カリブ海やアゾーレス諸島、ブラジルなどで、奴隷を使ったプランテーションを始めて、大量に自分たちで生産できるようにしていったからです。
その粗糖をナント、リバプール、アムステルダム、ロンドンに運んで精製するようになります。
こうして、イスラム圏の砂糖栽培&精製の独占事業は崩れ、時代は移っていったわけです。
17世紀中頃、紅茶は東インド会社が独占輸入してイギリスに運ばれていたのですが、貴族やジェントルマンの間で、この頃、「砂糖入りの紅茶」を飲む習慣ができます。
やがて、コーヒーハウスが街に出現すると、コーヒーも紅茶も砂糖入りで一気に大衆文化として広まっていったものだとか。
ちなみに、このコーヒーも、コーヒーハウスも、イスラム起源とあります。
夜中の修行中の眠気覚ましに、イスラム教のスーフィー(神秘主義を取る一派)たちが飲んでいたもので、メッカ
→ カイロ → イスタンブール →
ヨーロッパ圏へとまたたくまに拡がったといわれます。
「紅茶(かコーヒー)を楽しむひととき」というイギリス文化もイスラム圏の砂糖をベースに成り立っているわけです。
■イスラムからヨーロッパへ
西洋キリスト教圏では、11世紀末頃からイスラム文化の研究が始まったのだそうです。さかんに、アラビア語からラテン語に各知識が翻訳されて導入されていきました。
どんなものを導入したかを見ると、感慨深いものがあります。
・城砦構築法
・石弓の使用
・伝書鳩の利用
・戦勝祝賀の点火装飾
・壁/窓を絨毯や掛布で飾る方法
・甲冑
・紋章の使い方
紋章は、
「百合の花」「双頭の鷲」「立てる獅子」などの伝統的な紋章は、12世紀〜14世紀中頃にイスラムの王者などが使用していた、とあり、
現在、西洋キリスト教圏の王族や貴族固有の紋章、大学の紋章などとして私たちが眺めるものは、何と!
イスラムゆずりの紋章なんですね。
それにしても、さすがに、戦いに関するものが多いのは、イスラム圏と西洋キリスト教圏に共通する特徴でしょうね。彼らのアグレッシブで戦闘性の高い側面がうかがえますね。
もちろん、この他にも、
・アラビア数字
これは、現在でも世界中で使用されているもので、アラビア数字ではない数字での取引の計算の煩雑さを考えると、まさに、ものすごい発明ですね。
これは、今ではアラビア数字と呼ばれていますが、実は、イスラム圏がインドからゼロの観念を借用して代数学を確立したものです。10進法で計算できるようになり、イスラム圏ではインド数字と呼んでいたものです。
西洋キリスト教圏でいうアルジェブラ=代数学は、9世紀中頃にアラビア人学者フワーリズミーがインドからゼロの観念を導入して代数学(=ヒサーブ・アルジャブル)を体系化したものを、そっくりいただいてます。
交易には数量の計算がかかせません。13世紀にこの計算方法を見たヨーロッパ商人たちがさっそく使い始め、またたくまに世界に拡がっていったのは、当然ですね。
このアラビア数字/インド数字=つまり日本で言う「算用数字」については、文明間(イスラム教圏VSキリスト教圏)の確執が現在再燃しています。
サウジアラビアでは、法律で「インド数字使用令」も出されているようです。
その経緯の複雑さと数字の違いはこちらをご覧ください。
また、
・イスラム科学
私たちが使う「アルカリ」「アルコール」「化学=ケミストリー」など、はイスラム
→ ヨーロッパを経由して入ってきたものです。
イスラムのモスクを飾る幾何学模様で壁一面に配置されたアラベスク模様や、モスクなどの建築物の建て方などを見てもわかるように、イスラムの人々は非常に緻密、理詰め、で複雑な計算が得意な人々であり、それを反映した文化だと思います。
かなり、数学的才能が高く、論理性を重視し、その点ではインドの人々と似たところがあります。
ですから、イスラム科学も非常にレベルが高く、科学分野の文物などが多数西洋キリスト教圏に入っているといいます。
さらに、
・木綿(クトン)
この綿の栽培も、イスラム圏のエジプト近辺で行われていたもので、長くイスラム圏の輸出品目でした。砂糖栽培と同じように、やがて西洋キリスト教圏のアンダルシア地方で行われるようになり、フランスには12世紀、ドイツには14世紀、イギリスには15世紀に入っていきます。
・紙(パピルス、羊皮紙 → 紙へ)
7世紀頃の紙といえば、パピルスか、羊皮紙のみでとても高価ですから、メモ替わりに何かを書き留めるというものではありませんでした。751年頃、唐と戦い捕まえた捕虜から紙の製造方法を知ったイスラム圏では、各地に製紙工場を建て、安価な紙の生産を開始します。
以後、西洋キリスト教圏に製紙工場が建つ13世紀末までの500年ほどは、安価な紙をふんだんに使えるイスラム圏の優位は動かなかったようです。
ふんだんに紙が使えるため、公文書が作成され、10進法を使った計算のおかげで大規模な商取引などの予算編成なども書き付けることができ、イスラム圏は大いに発展したのでしょうね。<Rei>
来週は、マホメットが生まれる前のアラビア半島がどんなものだったのか、を眺めてみます。お楽しみに
皆さんの中で、少しづつですが、イスラム圏の姿や息遣いが、見えてき始めているでしょうか?
それを期待しつつ..不明点はメールでお知らせを
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