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一人でやれば個性、皆でやればそれはカルチャー。
人間社会の多様性を知る楽しみがあります。
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■ネポティズムを超えて(3) 【2003年5月4日】 ネポティズムがキズつけるもの / 明治のベストセラー ⇒(1)(2)(4)
■ネポティズムがキズつけるもの
ネポティズムが問題になるのは、なんといっても
●社会の「公平性」「自助努力」の精神をキズつける点でしょう。
自分を守りたい、良い結果が欲しい、といった気持ちは誰しも持っています。が、血縁や縁故で成果が得られるとなると、正当な自助努力で人生を拓くのはバカをみるような気がして、ラクに結果を求めるほうに傾いていきます。また、実力が報われない現実を知ると、無気力にもなっていき、社会の活力を殺いでいきます。
●それに、ネポティズムが横行する社会は、基本的に他人を信用できないと考えています。
弱肉強食の世界で弱い自分を守るには、心を許せる家族縁者か忠誠を誓う者どうしが結束するしかない。歴史的に民族が入り乱れて覇を競うような地域は、どうしてもこうなりがちです。人生を生き抜く知恵、必要悪と割り切っています。
ですが、人間誰でも少しはやましい気がするので、ネポティズム社会だといっても、大っぴらに行われるものではなく、蔭でこっそりと、あるいは特定の人間関係の中で決して口外せずに行われます。
独裁者も、最初から独裁者では登場しません。最初はけっこう善政をしていることが多く、自分の名前を施設につけて国民に印象づけて善政を強調したりします。
そのうちにさまざまな政策上の特権、利権が生まれるうちに、猜疑心が強くなり、イエスマンを身の回りに配置したり、部下の裏切りを心配したり、反対者を粛清したり..。
こういう独裁者は、人生の安泰がないので、せっせとスイスの個人口座などにいざというときの裏金を貯金して、その国の富を減らしてしまいます。
●また、ネポティズムが横行する社会では、法治の意味が理解できていないということではないでしょうか。
国民も、官憲も、結局のところ血縁とコネで豊かさにありつこう、富を独占しようとしますから、法律を守ることや、法律を第一義に立ててものごとを律していく意識は身についていません。本音と建前がくっきり明暗を分ける社会で、政治を信用していません。
●さらに、身分や階級が固定した社会では、自己実現する手段は血縁がなければ、縁故に頼って引きを待つ比重が極端に高くなります。
■明治のベストセラー
ちょっとここで、日本を振り返ってみます。
日本が士農工商の身分社会から四民平等社会へ転換したのはご承知のとおり明治維新です。
生まれ、門地によって職業や社会的地位が決まるのではなく、この世に生まれた後の、本人の努力に応じて人生を拓いていけるような社会を作ろうと、先人たちは汗を流したわけです。
その社会の基礎になるのは教育だと見抜いた明治政府は、国民の教育に力を入れました。
というのも、
学校教育では、新しい知識(当時は西洋の)を教わります。親の持っている伝統的な知識以外の、新しい知識をベースに、各人が人生を拓いていけるようになるわけです。
つまり、社会が発展するというのは、子どもは親とは違う人生を送っていくと言い切っていいと思います。
明治政府は、この教育による新しい知識が、国を発展させる資本になると判断したわけです。
もし、学校教育がなければ、人々は親や親方から伝統的な知識と倫理感を教わるぐらいです。親や親方の伝統的な知識は、基本的に過去の知識ですから、カエルの子はカエルで、親と同じような人生を送ることになります。
これだと、社会の進展は望めません。
親から放牧の方法を教わって、親の人生を繰り返して生きるアフリカの人々などは、これに当たります。この生き方は、社会の基本的な枠組みが変わらない場合は可能ですが、停滞社会です。
これでは、社会の基本ルールがひっくり返った明治時代の未来を拓いていく力にはなりません。
明治になって四民平等となったわけですが、農民は農業以外教わっていない、細工人は親の細工仕事しか見ていない、商人も読み・書き・そろばんのみ、元武士も教養は和漢の書のみ、という状況です。
そういう人々に、新しい知識が人生を拓くのだ、と熱っぽく説いたのが、福沢諭吉の「学問のすすめ」です。
こうした社会背景を考えれば、当時の若者の一大ベストセラーになったというのもうなずけますね。
その後も、日本は極端なネポティズムに堕ちることなく、現在までかなりの成功をしていると思います。
就職活動するのに、生まれや血統を気にせず、コネや袖の下に頼ることなく、自分の能力とやる気をどうアピールするかに腐心するだけでいいんですからね。企業も広く人材を公募できますし。
来週は、なぜ日本人は極端なネポティズムに落ちないのかを見てみます、お楽しみに <Rei>
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