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■明治の別な見方 【2004年8月31日】 (経済関連)
世界的なデフレ期に開国した日本 / 紡績業で見る成功ポイント
■世界的なデフレ期に開国した日
智慧コラムで取り上げる経済テーマでは、この「デフレ」が即「不況」を意味しないことを解説したいと考えています。
今回は、経済テーマの最終稿として、
世界的なデフレ期に開国した明治日本と、その経済の発展を眺めてみます。
世界的なデフレ期に開国した明治日本と、その経済の発展を眺めてみます。
すでに、明治期の日本人は、世界的なデフレ環境のなかで努力をして経済的な成長の道を辿ってきていますから、実は、日本人はデフレ対応の方法を知っていたということです。
マークされる年は、1873年(明治6年)です。
この年は、世界的に「恐慌」が起こった年ですが、これはつまり、世界経済が一斉に影響を受けるという、同一の景気循環のシステムが動き始めた年としてエポックメーキングな年なのだそうです。
これ以後、世界の主要国のどこかで不況が発生すれば、すぐに他の主要国の国内景気に影響を与え、まわりまわって世界全体が本格的に景気後退するという、「景気循環」が同調するという事態が発生したからです。
言葉を変えれば、
この時期に、国際貿易が進み、世界的に商品が流通する機構が定着するにつれて、「世界市場」が成立したということなわけです。
それ以後、世界の景気変動は、ほぼ同時期に世界各地で同調発生するということになっています。
この1873年から1896年まで、世界経済は毎年2%づつ物価が下落するデフレ期が続き、その中で世界経済全体の貿易額は5倍に膨れ上がっています。
こうした時期に、日本は開国しています。
それまでの農業を中心とした自国内での自給自足体制から、自国経済を世界経済システムのなかに組み入れる国家選択をしたわけです。
ですから、産業化、近代化、工業化は、明治開国以来の日本の一大テーマでした。
当時は、1858年にアメリカと締結した通商条約でも、日本は輸入した外国商品に5%しか関税を課すことができない不平等条約を結ばざるをえないような、非常に遅れた東アジアの農業国でした。
この時期の日本の近代工業、特に繊維産業でも、関税を課して外国商品との競争をかわすことができませんでした。ほんの5%しか、外国商品に関税をかけられなかったわけです。
日本から輸出される商品には、各国は当然高い関税をかけて、自国の商品を守るわけです。
どんどんと、安い外国商品(=5%の関税をつけた外国商品)が日本国内に流れ込み、かつ、毎年物価が下がり続けるという、こうした厳しい経済環境のなかで、明治の人々は努力したわけです。
今で例えるなら、
安い中国製品に5%の関税をかけて、国内商品価格より高くなるようして、国内産業を守るということでしょうか。
でも、ご承知のように、たった5%では焼け石に水ですね。
ですから、国内の産業は、必死の企業努力をして、コストを下げ、商品価格の面でも品質の面でも対抗できるようにする以外、世界経済のなかで生きのびるチャンスはなかったわけですね。
こうした日本ですから、
明治政府の第一のスローガンは「世界の普通の国に日本をかえる」というものだったそうで、当時の先進国の法律から各種制度、思想などを取り入れ、近代的な法体系を導入し、国際社会の一員になるべく努力したわけです。
ですから、経済の面からみても、
日本経済の繁栄は、世界的にモノとモノを交換することで成り立つということを骨身に凍みてわかったわけで、
「士農工商」などといって、商人や商売を一段と低くみてきた身分制度による意識をかえ、商人に自由な活躍の場を与えていかないと国が繁栄しないことに気づいた明治政府は、徹底した四民平等を推進していくことになりました。四民平等は経済的な見地からの要請でもあったわけです。
こういった点から見ても、今でもインドをはじめ、まだ身分制度を引きずっている国があることを考えれば、日本は恵まれていたなあと思われます。
そして、明治政府は
世界との貿易をするにあたり、貿易の決済がカギになるという重要性を考え、「日本銀行」に先駆けて、「貿易金融」業務を専門に担当する「横浜正金銀行」という当時の銀行を設立しています。
日本銀行より、貿易金融銀行の設立が先なのです。
いかに、明治政府が、当時のデフレ経済のなかで必死に生き抜いていったかが分かりますね。
貿易をして、できるだけ有利な条件で輸入を行い、いかに有利に輸出をしてその差額を稼ぐことで、国に富を蓄積しようとしたわけですから、当時の「貿易金融」業務を担当した人々は本当に国のエリートだったわけです。
また、もうひとつ、強調すべきことがあります。
先週号でも書きましたが、
デフレ期には徹底したコスト削減が要請され、必然的に新技術開発へと向かうという流れがあります。
明治政府もこの流れに対して素早く対応しています。
なんと、1873年(明治6年)に、世界で初めて東京大学に「工学大学校」というものを設置したのだそうです。
当時の世界の先進国、ヨーロッパ各国やアメリカなどより早く、なんと世界で初めて日本に工学部というものが設立されています。
いかにも、「モノづくり」に感性の高い日本人ならではの対応だと思われますね。
それまで「木」を燃料としてきた日本ですから、先進国の蒸気機関、石炭を燃料とする先進国の科学技術水準に必死に追いつく必要がありました。
そして、工学部で、体系的かつ組織的に理論的な工学の教育を開始して、技術水準を高めていきます。
それまで、
「工学」というジャンルは、世界的にみても体系的な学問&技術として明確なものがあったわけではないわけです。
個人的に優秀な職人や、その徒弟制度のなかで、一握りの優秀な技能と技術をもった人々が国や国王・藩主などの保護の元に発明や新発見などをしていたわけです。
日本では、この工学部の設置で科学技術の水準が驚異的に上がり、また体系的に大量の人々に高度な技術&技能を教育することができるようになり、明治期の日本の経済発展の基礎になったということだと思われます。
さらにいえば、
当時の日本人は、こうした不利な世界経済環境のなかで、どれほど厳しい条件であろうと一端調印した条約や取り決めを遵守して努力しています。
ですから、不平等条約の改正は、経済人をはじめ全国民の悲願にまでなっていたと言われるとおりです。
この不平等条約を改正していくには、国力をつけ、近代国家として国際社会の一員として恥じない国家運営をして、当時の先進諸国を納得させなければ、条約改定のテーブルにつけないわけですから。
いまの世界のように、IMFやGATなどなどの国際社会協調のための開発途上国優遇措置などがない時代です。
有色人種国家として、かなりのプレッシャーのなかで近代化への道を進まざるをえなかった、それに対して当時の日本人は言い訳をしなかったわけです。
■紡績業で見る成功ポイント
明治の日本で最初に近代工業として立ち上がったのは、紡績業です。
当時の経済環境は世界的デフレであり、不平等条約の制約を課されたその中で、いかにして商品力を高めて、綿産業の最先進国であるイギリスなどの商品に対して競争優位に立っていったのでしょうか?
これを研究すれば、
現代のデフレ環境を超えるポイントが掴めるものではないでしょうか。
経済評論家の長谷川慶太郎さんは、
明治日本の紡績業の成功のポイントを3つ挙げておられ、非常に参考になります。
・当時、世界で最先端のイギリスの紡績機械、織機を導入したこと。
つまり、最も競争力のあるイギリスの紡績企業に対して、低い資本力と技術力で日本は対抗せざるをえないために、製品価格を低く抑えることが命題であり、コストを徹底的に削るには、結局、生産性の高い最先端の機械を導入する必要があった。
・コスト切り下げの決め手となる新技術=混綿(世界の綿花をうまくブレンドしてある一定の性能を持たせた原料に転化する)の技術開発に取り組んだ。
・最先端技術の「電灯」を世界の紡績業界ではじめてイギリスより早く導入して、昼夜2交代制をとり、燃えやすい綿糸などのある職場から石油ランプを追放した。こうした先端技術を積極的に熱心に導入した。
こうした企業努力を重ね、
1895年(明治28年)には、綿糸・綿布の輸出国になっています。
つまり、それまでは日本は綿糸・綿布の輸入国だったわけです。5%の関税しか乗せていない安く品質の良いイギリス製品を買うしかなかったわけです。
日本の綿糸・綿布は、輸出したとしても、相手国国内で高い関税を掛けられてしまい、相手国製品より高価格になり競争力はなかったわけです。
ですから、
コスト削減、高品質をはかるあらゆる方法を企業家は模索したのだろうと想像されます。
それが、この1895年を機に、綿糸・綿布の輸出国に転換したということは、国際競争に勝ったということです。イギリスの綿糸・綿布より安く品質の良い製品を生産できるようになっていたわけです。
こうしたことが、毎年物価が2%づつ下がり続ける世界デフレ経済状況のなかで達成されています。
この紡績業成功のポイントをみると、
デフレ期を乗り切っていく要諦が見えてきます。
・徹底したコスト削減 → 最先端技術の開発
・高性能な生産用機械の導入
ですから、話は現代に戻りますが、
2004年の今年、日本の輸出が好調で景気が持ち直しているというのは、突然の気まぐれでも一過性のものでもないことが分かります。
世界各国は、このデフレ期を乗り切ろうとして、徹底した合理化、コストダウン、新技術開発に向かわざるをえません。
そのときに、最先端の生産用機械、工作機械などを導入しますが、
それは、最先端の技術力を持つ日本が現在持っているわけですから、世界各国への輸出が伸びているのです。
各国は徹底した合理化をするには、最先端技術を持つ日本の製品を使わざるをえないのです。
各国が最新技術を開発しようとしたら、日本から技術特許を買わざるをえないのです。
日本で売れる商品を生産しようとしたら、最先端技術を駆使した日本の生産用機械を使わざるをえないのです。
ですから
デフレ基調の世界経済は、今の日本経済にはプラス要因として働いているといえますね。
ここから見ても、
「デフレ即不況」という見方は、デフレ突入初期に遭遇する・企業リストラと・伸びない売上といった表面的な現象だけに捕われている見方だと思われます。
ややもすると、努力しない言い訳にデフレを使ったりしています。
しかし、良いインフレも、悪いデフレも本当はないわけです。
あるのは、世界経済の景気の循環の波というものであり、本来、この波は善悪で判断してもしようのないものであり、私たちがいかにこの「波」を乗りこなしていくか、ということではないでしょうか。
来週は、「イスラムのゆくえ」第3部をスタートさせます、お楽しみに <Rei>
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