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■あなたも陪審員になってみる? 【2002年11月4日】
日米司法のちがい / 60年前の日本にあった陪審裁判
■日米司法のちがい
アメリカの陪審裁判といえば、1995年に殺人罪で訴追された元プロフットボールのスーパースター、O.Jシンプソンが無罪表決を勝ち取ったケースが、際立っていました。---
陪審裁判は、一般人が陪審員となって裁くから、有罪のものも無罪にしてしまうこともあるらしい
--- などと短略的に伝わったきらいもあります。
いま、また、女優のウィノナ・ライダーがビバリーヒルズのデパートで万引きをしたとして窃盗罪での公判が始まり、本人は無罪を主張しているため、検察側は防犯ビデオに映った映像などを陪審員に公開し、アメリカのメディアも特集番組を組むなど、お茶の間をくぎ付けにしているようです。
また、イギリスでも、ダイアナ元妃の元執事だった男性が、ダイアナ元妃の私物を無断で自宅に持ち帰ったとして訴追されましたが、エリザベス女王の証言で一転無罪を勝ち取っています。イギリスの陪審裁判です。
各国の民主主義を少し調べていくと、司法制度のところに、日本との差がはっきりと出ているのではないかと思えてきました。
以前、実家の母にある日、1通の封筒が届きました。開けてみると裁判所からで、「被告人 00000」という書き出しではじまるその文章をみただけで、すっかり縮み上がってしまったといいます。よく読むと、母の祖父名義の土地の切れっぱしが、市の区画整理の結果出てきたということだったそうで、被告人呼ばわりされたと、おかんむりでした。
裁判所といえば、基本的に、「お白州に引き出された庶民や悪人と大岡越前主」のイメージが、ついてまわるのではないでしょうか。気軽に裁判所にいくことは、日本ではちょっと考えられません。できれば、一生裁判所とは無縁に暮らしたい、といったところです。
こうした国民性もあってか、日本の司法制度では、職業裁判官による裁判制度を採っています。専門知識とスキルを身につけた専門家(捜査官、検察官、弁護士、裁判官など)が職業として担当するわけです。
一方、英・米を中心とした国々では、一般人が陪審員として司法に参加する陪審員制度による裁判方式を採っています。陪審裁判にするかどうかを当事者が選べるようです。
神ならぬ人間が人間を裁く制度はどんなものであれ、一長一短があります。
日本の、専門家のみで行う裁判、特に刑事裁判は「精密司法」というそうで、結果的にほぼ100%が有罪となります。この方法の欠点は、冤罪が起きやすい点だといわれます。というのも、捜査官が密室で作成した供述調書を、裁判官は証拠として採用して、それを基に事実認定をして、有罪を判断して、量刑を下すからです。
裁判官は、大学などで法律学部の仲間だった検察官が出してくる供述調書に、人情としても、非を唱えにくいということがあるようなのです。また、密室での自白の強要もよく問題になります。
一方、アメリカの刑事司法はラフジャスティス=大雑把な司法といわれるようです。プライバシーの権利や黙秘権の保護のために捜査官の活動を制約して、捜査官の作った供述調書を証拠として採用することはほとんどないのだそうです。裁判官は何を証拠とするかを判断して、その証拠を基に一般の人々から選出された陪審員に事実認定(ある事実があったか、なかったか)の判断をさせます。裁判官はその陪審員の表決に従って量刑を判断します。
この方法だと、70%程度の有罪率となるのだそうです。というのも、検察側も弁護側も、陪審員を充分に納得させる証拠と弁論を出さなければならないからです。それができなければ、疑わしきは罰せず、という法の精神に則り、結果的には無罪としていきます。また、往々にして、陪審員は感情に流されやすいともいわれます。
一般人が陪審員となって人を裁くことは間違っているのではないか、という意見もありますが、陪審員が裁判全部をするものではなく、裁判長が判断した証拠に従って、ある「事実」があったかどうかという、「事実認定」のみを行うのがほとんどのようです。案件によっては、「量刑認定」を陪審員にゆだねるものもあるようですが。いずれにしても、裁判の一部の機能を担うものなのだそうです。
よく、日本国内で米兵の起こす刑事事件などで、アメリカ側が日本に犯人の引き渡しを拒む例がありますが、治外法権の問題ばかりではないのだとわかるようになりました。
日本の刑事裁判では、被疑者のプライバシーが守られない、密室で供述調書を作成する、取り調べに弁護士同席が認められない、といった点が大きいようです。彼らからすると、とてもプライバシーを尊重しているとは思えない野蛮な裁判制度に、自国民を引き渡すことは考えられないのだろうと思います。
そう思って見れば、アメリカ映画でおなじみの、「あなたには黙秘権があります、..」と警察官が金太郎アメのように長々説明するシーンは、アメリカの人々がこの司法制度を非常に誇らしいものとして受け入れていることを表しているのだと納得できます。
■60年前の日本にあった陪審裁判
この陪審裁判は、なんと、60年前までの10数年間、日本でも採用されていました。昭和18年まで続きましたが、戦争の激しさと敗戦、アメリカ軍による占領と憲法公布などが続き、昭和27年以後の独立回復後も、日本にこの陪審裁判制度は復活しませんでした。いま、この陪審員制度を復活させようとする司法関係者や司法に意識のある人たちの活動もあるようです。
中でも、興味をそそられるのが、昭和初期の日本に導入された陪審裁判の記録や、当時のマスコミの報道です。ネットでみられます。
<林 謙二氏の調査による陪審裁判お国巡りシリーズ
当時の新聞記事に見る わが国の陪審裁判>
ちょっと覗いてみても、
・「祖父銃殺未遂事件」
・「美妻殺し事件」
・「実兄銃殺未遂事件」
・「恋の放火事件」
・「那須村の撲殺事件」
・「片岡村実父殺し事件」
なにやら、人間臭くて、当時の陪審員がどう判断していたか、マスコミがどう伝えたか、ついつい読んでしまいました。とても真摯な「事実認定」を下していたことがわかります。
私たちは、民主主義というと、敗戦後のアメリカが持ちこんだもので、戦前の日本は軍部が独走する暗黒の時代だったように考えがちですが、ちょっとチガウのではないかと感じました。「大正デモクラシー」という時代への再評価が、今後なされていくのではないかと思われます。
この、一般人が陪審員となって裁判に参加する陪審裁判ですが、ネットで模擬裁判として参加してみることができます。「東京弁護士会 司法改革推進センター 陪審制度実現本部 BAI・SANSIN
国民の司法参加のためのホームページ」で公開している「模擬陪審法廷」です。以外と、マジになること請け合います。
議会制民主主義を発明したイギリスですが、その発祥は横暴な王様の権限を制限させるための話し合いの場=議会を市民が持ったことでした。いまの世界の共通認識に、国をまとめる手法として民主主義と自由主義を尊重するというものがあります。
民主主義をごく平たく言えば、皆でよく話しあってものごとを決めていくということです。お互いの意見をよく聞き合うには、違った意見を言う人も、人間の多様性として尊重していくことが必要になります。話し合うには、正確な情報を自由に手に入れて、その構成員一人ひとりが対等の人間として自由にモノを言えることが必要になります。お代官様と下々に代表されるような上下関係ではないわけです。
権力を持つ者が独走しないように、3権(行政、立法、司法)を分立させ、お互いをチェックし合う仕組みにしてあるわけです。その司法に一般市民が参加することは、一握りの裁判官に権力が集中しない仕組みのひとつですし、また、人々が民主主義の主人公となる具体例でもあるわけです。マスコミも、本来は、この3権が公平に行われているかどうかをチェックする機能です。
この言論の自由、法律の範囲内に収まるかぎりは何を言っても逮捕されないこと、人生に不利益にならないこと、が保証されているかどうかで、民主主義がまともに機能しているかどうかがわかります。
北朝鮮も、中国なども、政府の意向に反対のことは言えない国ですし、国民に流す情報を統制しています。これらの国では、本来の意味でのマスコミは存在しません。すべて官報ですから。
民主主義を担保する、こうした言論の自由ですが、別の角度から問題がでてきています。次回につづきます。 <Rei>
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