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一人でやれば個性、皆でやればそれはカルチャー。
人間社会の多様性を知る楽しみがあります。
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■相反するもの 【2002年12月01日】
ジェンダーフリーの勘違い / 男と女の深い溝 / コーヒーと紅茶
■ジェンダーフリーの勘違い
「ジェンダーフリー」や「子どもの権利条約」をベースに、千葉県松戸市が実施している「ふりーせる保育」をめぐって、保護者から行き過ぎたジェンダーフリーとして批判が続出しているといいます。(産経11/22付け)
新聞によると、この「ふりーせる保育」というのは、「自由」「安心」「自信」の英語の頭文字を取った松戸市独自の造語だそうで、「子どもは権利を行使する存在で、大人と対等」という運営方針で保育しているのだそうです。
ところが、保護者からの指摘で苦情が相次いでおり、一向に改善されないために、ハナシが衆議院の青少年問題特別委員会まで上がって行くことになったらしいのです。
で、その苦情を読んだとたん、笑っちゃって止まらなくなってしまいました。
●「1才以上の園児にはおやつの選択の自由がある。嫌いなら牛乳は飲まなくていい」
●「食事も選択の自由で、遊びに夢中で食事を抜くことがある」
●保護者が「子どもたちの発表会がみたい」と申し入れると、保育士から「それは保育士が決める問題ではなく子どもたちの意志で決めるべきだ。各家庭で働きかけてほしい」
●香取慎吾の「慎吾ママのおはロック」を運動会のダンスで踊る際も、「母親がごはんをつくる歌詞はジェンダーフリーに反する」として、カラオケで演奏された。などなど
あんまりおかしいので、小コラムでも取り上げることにしました。
いま、文部大臣の諮問機関である「中央教育審議会=中教審」で、教育基本法の見直し作業が進められており、中間報告が出されました。今後は国民の意見を聞いたうえで最終答申をまとめ、文部科学省は来年通常国会での法案提出をめざしているといいます。いい機会ですので、ちょっと考えてみたいと思います。
■男と女の深い溝
男性と女性がどのように協力して家庭や社会を作っていくかという課題は、人間が日々直面するものですし、また一生続いていく難問でもあると思います。実は、そう簡単には答えが出ない、人類全員に課せられた根源的な試験問題なのだと思います。人生の悲喜劇のほとんど大部分を占めているのではないでしょうか。
というのも、各人が対面する人々はそれぞれですし、年令も職業も、性格も、体力も、趣味も、好みも、家庭での役割もまちまちですから、これだ!、という答えが1つあるわけではないからです。一生を通じて、その置かれた環境と役割の中で、さまざまな男女の組み合せの中で最善の道を探り出しつつ歩いていくしかないのかな、と思います。
そうした中でただ、人間という種が、男性と女性という、言ってみれば相反する機能を分担するものとしてデザインされていることを、たいていの人は受け入れ、自分の性別を当たり前のものとして受けとっています。
人間は、この男性と女性という相反する二つの性に分かれるわけですが、自然界に目を転じてみれば、ある法則が働いていること気づかされます。水は、「水素」と「酸素」というまったく異質な気体が化合することで、そこに酸素でもなく水素でもない、まったく新しい液体の物質、「水」となっています。また、植物に対応するものとしては動物、地を這うものには空を飛ぶ動物が対比されたり。世の中のものごとには、相反するものの対比がいたるところにあふれているわけです。
正・反・合の順序で、ものごとは進化発展していくと説明した哲学者もいました。経済や科学などの分野でみても、異質なものどうしを掛け合せて発明や発見をしたり、新しい商品やサービスを思いついたりすると聞きます。私たちもアイデアに煮詰まったときには、まったく関係のない資料などからヒントを掴むことがあります。
このように、その性質が対極にあるものとの掛け合せで、よりすばらしい価値を生み出していくということが、自然界の法則の中に生きる私たちにも等しく働いているように思われるのです。
男性と女性は、その基本的な性質が全く異質であるということ。その違いがあるからこそ、よりすばらしいものを生み出していけるのだという視点が、ジェンダーフリー信奉者にはないようなのです。というより、むしろ、男女差を敵視して、食事をつくる=家事労働、ボク・ワタシ=言語表現、などの表面的な男女差をなくすことで、男女差解消の突破口になると本気で考えているのかな、と思われるフシがあります。それを幼児教育でやったのが、松戸市の「ふりーせる保育」で、それはもう、問題が噴出すると思います。
■コーヒーと紅茶
女性が女性に生まれついているという事実だけで、割を食う社会はおかしい、是正したいと。その部分には、正しい面も確かにあります。性別、財産、生まれにかかわりなく、1個人の才能と努力で何度でも人生を切り開いていける社会にむけて、何をどうするのか、男性も女性も一歩前に出る勇気が必要だと思われます。
しかし、男性と対等になるために、女性固有の性質を否定して近づくと考えるなら、行き過ぎではないでしょうか。ジェンダーフリーを主張する人々は、むしろ、女性の尊厳を傷つけていることになっている現実をみた方がよいと思うのです。女性としての価値を低くしか見られないのではないかと思われるからです。
男性であれ、女性であれ、人間としての尊さは同じです。その働きとしては、対極に造られています。ですから、女性から女性性を抜いたら男性に近づいていくのかといえば、そんなことはありえないと思います。もしそういう男でもなく女でもない人間がいたら、かなり気持ちの悪い存在だと思います。大多数の女性が、「ジェンダーフリー」にある種のすり替えを感じるのは、こんなところにあるのかもしれません。
自然界を見ると、確かに雌雄同体の生物や、温度によって雌雄が分かれるものや、子どもを産んだ後に雌雄が入れ替わるものなどがあります。が、いずれも、生命の発現形態としては、下等なものです。高度に進化を遂げていくほど、雌雄は明確になり、それぞれの性のなかで最高に洗練度を発揮していくものだと思います。
たとえていえば、コーヒーと紅茶。どちらも芳しい香りと味で多くの人に愛飲されています。しかし、コーヒーと紅茶のどちらが優れているというものではありません。この二つは、飲み物としては同じように愛飲されています。ですが、その香り、味は全く別物です。それぞれにすばらしいものです。そのコーヒーを紅茶に入れても、飲めたものではないと思います。そんなもの、だれも飲まないでしょう。
そんな教育を公教育として保育からやられたら、国を誤ってしまいます。男性と女性とのかかわりをどうしていくのか、どんな社会にしていくのかについて、次週に続けたいと思います。 <Rei>
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